真似してぬか漬け
稲垣えみ子氏といえば2011年の東日本大震災をきっかけに節電生活に入った元新聞記者ということは知っていて、私もそういえば稲垣えみ子氏をきっかけにぬか漬けを試したことを思い出した。
野田琺瑯のぬか漬け容器も手に入れて、一生これで乳酸菌たっぷりヘルシー節電生活をするぞと意気込んでいたが、完璧主義が災いしてかさほど続かず、野田琺瑯のぬか漬け容器もメルカリでとっくに手放して今はない。
最近になって改めて稲垣本を読んでみようと、「アフロ記者」と「寂しい生活」を手に取ったが、じっくり書かれた「寂しい生活」が断然良かった。
「アフロ記者」本の方は新聞のコラムをまとめたもので、決められた字数の枠での起承転結もしくは序破離という感じで、単なる要約に見えてしまう。
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京都のお寺で涼んでみれば
ある時稲垣は京都で時間を持て余し、お寺で涼もうと考える。
一歩足を踏み入れれば確かに涼しく、エアコンも二重サッシもないのに、伝統的木造寺社建築はなんて素晴らしいのだと思う。
しかし、これで終われば予定調和の世界。
稲垣えみ子がその場で涼みながらよくよく観察していると、ほかの観光客は汗を拭いたり手元の何かで扇いだりしていて、ちっとも涼しそうではないのである。
涼しさがあってもそれを感じ取れる感性がないと涼しくない
どかどかとやって来てせかせかと去って行く観光客を見て、これはどういうことかと稲垣えみ子は考えた。
自身は普段冷暖房のない暮らしをしているので、暑さ寒さに敏感で、少しの涼しさでもしっかり感じ取れるのではないか。
また暑さ寒さも固定した決まったものではなく、その場所や規模は常に移り行くものであり、それを見つけられる感性あるいは身体があれば、いつでも快適な空間に居る、もしくは快適な場所に移ることができるのではないかと考察した。
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冷暖房無しでも暮らせるかも
この話を読んで、私はまたまた二極化を連想した。
同じ場所にいて同じ体験をしても、ハッピーかそうでないかは、ひとによって、またその人が何を選ぶかによって違ってくるという話だ。
そして、「節電はしたいけれど昨今の猛暑極寒では無理だ、冷暖房を無くすなんてありえない」というのがいつしか大前提のようになっているが、実は全く打つ手がないわけでもないのかもしれない。
私はかすかな希望を見出しました。